東京パーソナルカラー診断サロンiro×iro

東京で14分類の精密パーソナルカラー診断を行っている「iro×iro」(いろいろ)JR中央線・南武線 立川駅北口から徒歩9分

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プロフィール

 

久保ヨシカズ

  • 1983年10月31日生まれ。
  • 福岡県糸島市(元前原市)出身
  • 東京学芸大学教育学部環境教育専攻卒

主な資格

  • A・F・T色彩検定 1級
  • セブンシーズンカラーズパーソナルカラーリストプロ養成講座 修了
  • ニュートラルベースNLPプラクティショナーコース 修了

 

趣味

釣り、バスケットボール
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ここからは、久保の自分史です。恥ずかしながら、これまでの人生を赤裸々に書いています。長いので暇な人だけ読んで下さいね。

自分史

自分が生まれ育ったのは、かつては田舎とバカにされていた糸島。
今では福岡でも住みたい街ランキング上位に入り、芸能人がプライベートでも訪れるみたいです。
家族構成は体育教師の父と英語教師の母、兄と妹と祖母。

実家周辺

幼少時代

家にはゲームなども無かったので、小さい頃の遊びといえば木登りや、探検、虫獲りなど完全に野生児でした。
一人でセミ獲りに行って木から落ちて頭に大ケガをして気を失い、近所のおばさんに助けられるという死にかけたエピソードがあります。
この頃の将来の夢は、おまわりさんでした。

小学校時代

全校生徒200人ほどの田舎の学校でした(今は100人以下みたいです。過疎ってます)。
ものすごく古い木造の校舎だったのですが、入学してすぐに校舎が火事で全焼し、1年間くらいはプレハブが教室でした。
その後ピカピカの最先端の校舎に生まれ変わりました。

学校にはドラえもんに出てくるような小さな裏山が装備されており、アスレチックがあったり、頂上には忠霊塔や土俵がありました。
裏山では休み時間に缶けりや木登りをしたり、秘密基地を作ったりしていました。
毎年夏には裏山の土俵で半強制参加の学年別相撲大会があり、体がデカかったので2回ほど優勝したことがあります。

生き物が好きだったのでファーブル昆虫記やシートン動物記、椋鳩十などの本を好んで読んでました。
近所の神社でフクロウの幼鳥を見たことをきっかけに鳥が好きになり、バードウォッチングにもハマりました。

小4~小6まで学校のバスケットクラブに入り、小6で他校のミニバスにも入りました。
160cm以上あったので、割と無敵でした。
今でも一番の趣味になっているバス釣りは、兄とその友達と行ってからハマりました。
この頃の将来の夢は、バスプロ(バス釣りのプロ)でした。

中学校時代

公立の中学校に入学。
ウチの田舎では中学受験する人など誰もいません。
当然のようにバスケ部に入部したのですが、練習がきつくてイヤで仕方なかったです。
一応2年でベンチ入り、3年ではスタメンで身長が2番目に高かったのでポジションはセンターでした。
練習を熱心にやるタイプではなかったので、サボらないようにと副キャプテンをやらされていました。
足首の捻挫グセがついていて、しょっちゅう捻挫しては1カ月ほど見学していましが、練習が休めて少しうれしく思っていた部分もあります…

休日は部活が終われば即釣り。
中学校の横に池があったので、休日は自宅と中学校をチャリで2往復(約20km)してました。
部活は何度も辞めようと思ったけど、何とか3年の引退まで続けました。
部活と釣りしかしてなかった中学時代。
中3の夏休みから高校受験のために塾に入り、中の上くらいの公立高校を受けることにしました。
この頃の将来の夢は、もうよくわからなかったです…

高校時代

無事第一志望の高校に受かり、自宅から10kmの距離をチャリで通学してました。
自宅は駅から7kmの距離なので電車もバスも遠回り。
チャリが最速の交通手段でした。
毎日遅刻ギリギリだったので、向かい風の日は遅刻することも…

中学時代の部活の苦い思い出から、高校では部活に入らず、学校が終わったら即帰宅して家でゴロゴロ…
基本的に極度の怠け者で、面倒くさがりな性格なので、興味のあること以外は何もしたくない人です。
庭でバスケをしたり筋トレしていたのは覚えてますが、あとは何してたか覚えていません…
友達の家は遠いので、休日に遊んだりすることはあまり無かったです。
お昼のワイドショーのファッションチェックや変身企画が好きで、テスト期間中の早く帰れる日はいつも観ていました。
この頃から今の仕事につながるものがあったみたいです。

高1まではずっと坊主頭で、幼少期からずっと家で父に切ってもらっていました。
坊主頭ってモテないですよね。
高1の冬くらいから色気づいて髪型を変えたのですが、かと言ってモテませんでしたけどね。
高校時代は浮き沈み無く、フラットな日常を過ごしていました。
ハイライトは体育祭とかで運動部にも負けない活躍をしたくらいですね。
あとは修学旅行で行ったハワイが楽しかったくらいです。

高3くらいの時に母親と些細なことでケンカになり、以降最低限の会話しかしなくなりました。
不仲というか、一方的にこっちが無視してましたね。反抗期です…
色々と煩わしくて家にいたくなかったので、大学では一人暮らしすることを決意。

どうせなら東京に行こうと思い、東京で一番簡単そうな国立大を受けることにしました。
反抗期ながら親にはあまり負担をかけたくなかったので、私立には絶対に行くつもりはありませんでした。
高3の夏休みから受験勉強を始めて、無事第一志望に合格することが出来ました。
母とは結局わだかまりが残ったまま上京することになりました。
これが結構長いこと気まずい感じを引きずることになります。

大学時代

夢に見た東京での一人暮らし。
初日は荷物最小限で行って現地調達する予定だったので、布団などが無く夜は凍えて眠れませんでした。
暖房も効かないので、布団が届くまでは部屋の中にダンボールハウスを作って持ってきた服を着れるだけ着て寝てました。

自然とか生き物が好きだったので、大学は環境関連を専攻しました。
授業では山に行って植物を採取したり、畑に行ったり、野生の血が騒ぎました。
自由選択の単位で面白そうだったので、色彩学の授業を履修することにしました。
せっかく勉強したので資格をとろうと思い、色彩検定2級を取得し、そのままのノリと勢いで1級まで独学で取得。
さらにせっかくなので仕事に生かしたいと思って、パーソナルカラー講座で技術を習得しました。
これが今の仕事につながることになります。

交友関係は同じ科の仲のいい4人組で遊ぶことが多かったです。
その友人たちとバスケサークルを作って週1くらいで活動してました。
人は全然集まらなかったですが…
みんなバイトとかで忙しくて、バイトをしてなかった自分は授業が無い時は基本家でゴロゴロ。
この頃はパソコンも持っていなかったので、持ってたらネットを使っていろいろできたのにな~と今になって思います。
という感じで最初は東京で華やかなキャンパスライフを夢見ていましたが、地味~に暮らしてました。
結局は場所や見た目を少し華やかにしても、自分の中身が変わらなければ華やかな生活は出来ないんですね。

そして年を重ねるごとに圧倒的に一人での時間が増え、一人力を磨いていくことになります。
自炊もして料理も主婦並に出来るようになりました。
一人で何でも出来るようになり、どこにでも行けるようになります。
寂しさを感じることもなくなります。
逆に人といるときの気使いとか、不自由さがどんどん面倒くさくなってきます。

帰省はだいたい年に1回程度で、青春18切符で鈍行列車を乗り継いで途中下車の一人旅をしながら2日かけて帰ってました。
相変わらず母親とは気まずい感じを引きずってましたね。
今でも若干の気まずさはあるものの、だいぶ修復できています。

卒業後の進路については漠然と起業したいと考えるようになりました。
何か当てがあったわけじゃないですが…
就職したら人生のレールが決まり、会社や上司に縛られ、行きつく先はつまらない人生だと思ってました。
自由で冒険的な人生を望んでいました。
そしてまわりが就活して内定を決めて行く中、就活をすることなく卒業することに…
卒論では都内の公園でカラスの巣について調査しました。

フリーター時代~現在

数年間は飲食店や、携帯電話会社、アパレルなどのバイトや派遣を掛け持ちして生活していました。
カラーの仕事をしたかったのですが、始め方がよく分からないので(笑)この頃は起業のためにお金を貯めようと朝から晩まで働いていました。
途中1カ月ほど働かなくなったり、浪費したりで結局あまり貯まらなかったですが…

そして25歳頃から突然個人で通販事業を始めることにしました。
これで一気にお金を貯めてカラーの仕事を始めるぞって感じで。
でも、車を購入したことをきっかけに釣りを再開。
生活の中心が釣りになり、山梨県の河口湖に毎週通うようになりました。
この頃は四六時中釣りのことを考えてましたね。
そして引きこもりでもないのに、99%以上の時間を一人で過ごしていました。
アウトドア引きこもり状態?ですね。

人と接するのは買い物に行ったときの店員さんくらいでした。
1年のうち363日一人という年もありました。
その年に人と過ごしたのは大学の友達との忘年会が1回と、東京に来た母と会ったのが1回だけです。
そんな社会からかけ離れた生活を5年以上やってました。

帰省は2~3年に1回くらいで、ほとんど帰りませんでした。
後に祖母が死ぬときに後悔することになります。
家族って大事です。

30歳を過ぎたころからこのままダラダラ生きるのはまずいと思い、ようやくカラーの仕事を始めることを決意。
大学を卒業した頃と違ってインターネットがものすごく普及していたし、一人で生計を立てるという経験をしたことでなんとかなりそうという楽観的な考えで、2015年からパーソナルカラー診断を始めました。

 

公開日:
最終更新日:2021/01/26